文化と歴史

文化と歴史
CULTURE & HISTORY

文化と歴史

奥日光湯元温泉の文化と歴史

奥日光の伝説
Legend of Okunikko

むかしむかしの奥日光

伝説では、その昔、湖水の領有をめぐり二荒と赤城の神が争う。二荒の神は蛇となり百足の姿をした赤城の神と決戦し勝利を得、流血により「赤沼」ができ、その地を「戦場ヶ原」と呼び、軍議により勝負をつけた場所を「菖蒲ヶ浜」、二荒の神たちが勝利を祝い歌舞した美しい浜辺を「歌ヶ浜」と名付けられた。
古代では、仏教色が希薄であり女神が主役で活躍している。
「ふたら」は二神が現(あら)われることであり男神と女神にほかならず、東国のふたら山信仰も女神が優越した二尊信仰と理解できる。

湯元温泉の発見
Discovering Yumoto Onsen

勝道上人の功績-日光湯元温泉発見-

人跡未踏のふたら山(男体山)に登攀を試みたのは、奈良朝末期から平安朝初期にかけて活躍した勝道上人であり、日光湯元温泉の開湯も、延暦7(788)年に勝道上人により発見されることに始まる。
その温泉は薬師湯(瑠璃湯)と名付けられ、その後も弘法大師空海が観自在湯を開くなど、次々に新しい温泉が発見された。
「湯ノ湖」「西ノ湖」「中禅寺湖」を含め奥日光の大自然は、彼らにより文献資料を通じ広められることとなる。

中世~近世の湯元温泉
Medieval times

女人禁制の季節営業湯治場

中世武家政権期より女神信仰は駆逐され、男体権現中心の信仰に移行し、中世から近世にかけて修験道が隆盛する。時を同じくして女人禁制、牛馬禁制は明治維新まで続くこととなる。
秀吉の小田原攻略後は日光山領没収により日光山は衰微し、以後の活性は天海の来晃と徳川廟築造を待たねばならない。
奥日光は山内より距離がありこれらの変革の影響は緩慢な経過となった。

湯元温泉は、日光山温泉、中禅寺温泉、二荒山温泉と称し中禅寺別所の管轄下で湯守として九件が認められており、夏季の5ヶ月間湯宿を開き、入湯者の世話や湯小屋の管理にあたり、入湯者は中禅寺別所に湯銭を納め登ってきた。幕末の頃は混浴の共同浴場で旅館の内湯ではなく2層、3層の高楼もみられた。

明治になると、秘境の湯を訪れる人も多くなる。中禅寺門前に六軒茶屋を主体に中宮祠の町並みができ、人も年を通して暮らすようになると奥日光の来訪者は飛躍的に増え、明治12年の錦絵「野州二荒山温泉之図」に賑わいぶりがうかがわれる。

近代の湯元温泉
Modern times

イギリス人が愛でた奥日光の自然

明治11年(1878)6月、イギリス人女性旅行家イザベラ・バードは日光滞在中に湯元温泉を訪れ宿泊し活況ぶりや温泉の効能、風俗など詳細を記している。
また、イギリス公使アーネスト・サトウは奥日光をこよなく愛し、足しげく通い奥日光の自然を深く理解し没入した。
明治20年代の奥日光は諸外国の避暑のための社交場であり、彼らの影響力や功績は大きく、ヨーロッパ貴族趣味の世界が奥日光に花開いたともいえる。
明治から大正にかけて外国人別荘に関連することが最も効率の良い高い収入を得る手段でありました。

新しい未来像へ
Future

地域連携した未来像

湯元温泉は温泉のほかに、切込湖・刈込湖へのハイキング、湯ノ湖や湯川での釣り、キャンプ、スキー、スノーシューなどのウインタースポーツ、写真撮影やバードウオッチングなど温泉に加え標高1500mの自然を 四季を通じ体感体験できるエリアとして親しまれています。
また、白根山や群馬県境の五色山、金精山、温泉ヶ岳の登山口にあたり、日光から群馬県沼田市、草津町、長野県上田市へ通じる日本ロマンチック街道はドイツ的な景観として近県と連携しています。
最近では、『国立公園満喫プロジェクト』という環境省施策の一環として、国内外の観光客に我が国第一級の拠点を整備し、それにより地域が活性化することをめざし、意見交換を重ねています。
また、現在はSDG,Sカーボンニュートラルに向けて地域連携した未来像を構築することになりました。

現代の主な出来事
Timeline

姉妹街道の誕生

第57回国体冬季栃木大会開催

温泉寺薬師堂再建

ラムサール条約登録湿地 奥日光の湿原-湯ノ湖、湯川、戦場ヶ原、小田代原-

第二いろは坂道路完成

湯元温泉スキー場にリフトを開設

有料ドライブウェー「いろは坂」中禅寺道路大改修

日光国立公園の誕生

明智平~展望台ロープウェー開業

湯元温泉にスキー場がオープン

湯元温泉の大火